遙かのちいさなちいさなお話
ゆやものがたり 「名前」

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熊野は既に夏から秋へと季節が移った。
あれほど暑かったはずなのに、今ではもう冷たい風が吹き込んでくる。
けれどときおり、今日のように強い日差しが空から照りつける日もあるが、御簾を挙げれば冷たい風は中へと通り、幾分涼しく過ごせている。
別当専用の執務室の入り口では、
その強い光が、弁慶の髪へとふりそそぎ輝きを放っている。
暑くはないのかと、ヒノエはそれを眼の端でみやりながら思うが。
口元には笑みがあるので、まあ平気かと思う程度。
手には、終わらない書類の束の一部。
見終わっていないまだ多くのそれは、背後へと積み上げられているのに、
随分と機嫌が良いな、と思った。
「……なあ、あんたさ」
ふと、声を掛けたのに。
弁慶は紙から視線さえもあげずに、黙っている。
ヒノエは片眉をひょこりと上げ、
胡座の膝をまわして弁慶へと向き直る。
「呼んでんだから、無視しないでくれる?」
「……呼ばれましたか?」
「あ?」
「僕の名前は、なんだったでしょうね……?」
ゆるりと、顔があがる。
そこには、意味の変化した微笑みが。
そういうことかと、指先でカリとヒノエは頭を掻いた。
「仕事中に、あんたの名前は呼ばないよ」
膝をくるりとまわして、文机に向き直る。
「そんなに、僕の名を呼ぶのはイヤですか」
「そうじゃなくて」
あんたの名前を呼んだら、仕事どころじゃなくなるからね。
それでなくても、仕事が溜まり過ぎている。
この分では、いつ休みが取れるか。
紅葉が山を彩る頃には、まとまった休みが欲しい。
温泉も良いよな、と仕事中だというのに思ってしまって。
心中で、追い出すように頭を振る。
「……ヒノエ」
頑張ってくださいね。
目の端でそちらをみやると、
目を細めて、弁慶が微笑んでいる。
背後から光がさしこみ、髪を輝かせる。
だから仕事中に名前を呼ぶな。
全く、仕事になりゃしない。
筆に墨をのせたばかりだというのに、今にも紙に染みが落ちそうだった。